古代史に見る、朝鮮半島・民族の悲劇

古代史から見た現代の高句麗・新羅・百済
 ー 半島を方言で見る 古代と現代 ー

【朝鮮半島は新・三国時代へ】 という新聞記事が以前、産経ニュースに載ったことがある。 http://c23.biz/HF3m  魚拓 http://c23.biz/fcxX


朝鮮半島は1945年、南北分割で南の韓国に北の黄海道出身の李承晩政権ができた。

李承晩は北の黄海道出身で親米・反共主義者として知られ、北からの多くの避難民が韓国に逃れてきた。こんな経緯もあって李政権下では北出身者が羽振りを利かした。

韓国政治が南出身者中心になるのは1960年代の慶尚道出身の朴正煕政権からだ。

ところが この朴政権に対し金大中氏に象徴される全羅道出身者が反政府派の中心となり、韓国政治に 東西対立がはじまった。

総選挙では毎回、東(慶尚道)は与党、西(全羅道)は野党と支持分布が くっきり分かれている。

もし南北が統一したあかつきには 「 統一韓国の政治は東西に 北出身者を加えた “三つどもえ” になる 」という話もある。

歴史的にいえば、古代史の新羅(東)、百済(西)、高句麗(北)による三国時代の 再現である。

         


そこで、現在の方言の分布図と、三韓時代の地図を併せてみた。

① 平安道(へいあんどう、ピョンアンド)は、朝鮮八道の一つ。
 高麗時代には西北面と呼ばれ、太宗13年(1413)に平安道と改名された。
中心は平壌にあり、平壌府が置かれた。

② 咸鏡道 (かんきょうどう、ハムギョンド)
 朝鮮三国時代の高句麗の後、渤海が領有し、後に北部は女真族の地となった。
李氏朝鮮・世宗の時代に侵略して併合し、北境が確定した。

③ 京畿道 (けいきどう、キョンギド)(含 黄海道)
 三国時代(BC18)以来、政治的に重要な場所であり、百済が河南の慰礼城を首都に定めたが → 5世紀半ば高句麗に併合 → 553年新羅の領土 → 高麗の太祖・王健が開城を首都に定めてからは、京畿地域は歴史の中心舞台として浮上し、1018年から正式に「京畿」と呼ぶようになった。

④ 全羅道 (ぜんらどう、チョルラド)
 全羅北道と、全羅南道に属する羅州の頭文字で、金大中の出身地で、最大野党でもある民主統合党(中道左派政党)の強固な支持基盤となっている。

⑤ 慶尚南道 (けいしょうなんどう、キョンサンナムド)
慶尚とは、慶州(新羅の古都)、尚州を組み合わせた言葉である。

⑥ 済州島(さいしゅうとう、チェジュとう)
 15世紀初めごろまでは 耽羅という独立した王国があった。

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朝鮮半島を方言区分で見ると、古代からの高句麗・新羅・百済の区分が根強く残っていることがよく分かる。

注目すべきは、歴史的には、高句麗・新羅・百済は まったく異なる国柄だったことだ。

どう国柄が違うかは、別な機会に譲るが、半島の中は、今でも 高句麗・新羅・百済 同様に、まったく違う国なのである。

朝鮮半島の複雑な国情を理解しようとしたら、古代の歴史を紐解かねばなるまい!