中国人が「支那」と呼ばれるのをいやがる理由



中華人民共和国の通称は、チャイナ(China)で、シナ(支那)と同じなのに、なぜ日本語の「支那」だけをいやがるのか?

この謎を解くには、竹内文献を紐解くとよく分かる。
なぜなら「支那」という意味は、「枝の国」という意味なのだ。

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中国の史書から、いくつか拾ってみよう。

Ⅰ)『十八史略』巻一  太古
「天皇氏、以木德王。歳起摂提。無為而化。兄弟十二人、各一万八千歳。」すなわち
天皇氏は太古の昔から 王である」と記されている。

Ⅱ)前漢代、袁康の『越絶書』には、
「夫れ、越王勾践は、東僻と雖もなお、天皇の位に繋がる」すなわち、
東方僻地の(日本に近い)王は、天皇たり得る」とある。

Ⅲ)唐代の補筆された『史記』の冒頭に、
最初に天地のうちに現れた君主が、天皇である」と記されている。

Ⅳ)四世紀の道士 葛洪は 著書『枕中書』のうちで、扶桑大帝東王公は天皇なりとし、
「扶桑大帝は東王公であり、元陽父と号し、碧中に住す。…上に太真宮有り、天皇と為り…云々」と、説いた。すなわち
天皇は、大陸東方海上の島に住み、そこを治める日神なる君主神」ということである。 
 (斎藤忠著「盗まれた日本建国の謎」を参考にしました。)

 天皇 = スメラミコト


この『枕中書』の「…上に「太真宮」有り、天皇と為り…云々」とある「太真宮」について、日本の『竹内文献』では、
[スメラミコト(天皇)の称号は、日球の国のホドの神(天神)と、地球のミドの神(人祖:くにつかみ)から生まれた 国萬造主(くによろずつくりぬし)が、上の位の神より「天神人祖初 神宮」で授かった]
とある。

すなわち、大陸では【太真宮】、竹内文献では【天神人祖初 神宮】と、双方に共通する「お宮があった」という認識が存在したのだ。


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そのうえで、「竹内文献」には、天地開闢以来存在した「スメラミコト」は、地球上の枝国(えだくに)を巡幸し、子らを各国に赴かせた、とある。

それによると、日本は祖国(おやくに)で、枝国が 十六国あったという。
その中の大陸へは、スメラミコトの子「盤支那弟清民王」が赴き、その地を 祖国「天津(あまつ)国」にちなんで、「天津」と称した。そこが現在の天津市だという。

そして子孫には、
A)「華唐古氏」~ 伏義氏・神農氏の系統と(これらは中国の神話の世界とされている)、
B)「支那華氏」~ 北京氏・南京氏・福建女氏・四川平氏ら系統がいる、とも記されている。

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つまるところ現代中国人には、東方には太古の昔から王である天皇氏が存在したという記憶があり、支那国はその「スメラミコト」のいる祖国(おやくに)の「枝国」だったという記憶も、また存在するのだ。

それゆえ、後の時代(古代)に大陸は、世界四大文明の国だった、というプライドを傷つけるものとして、「支那=枝の国」という名称を忌み嫌うのである。

しかしこれらの記憶は、厳然として永遠に残る。

上記の話を、大陸の教養人に話せば、皆 押し黙ってしまうことだろう。

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スメラミコトが「天皇」と表現された経緯



「竹内文書」によると、スメラミコト(天皇)の称号は、日球の国のホドの神(天神)と、地球のミドの神(人祖:くにつかみ)から生まれた 国萬造主(くによろずつくりぬし)が、上の位の神より授かった、とある。

その称号を授かった場所を、『天神人祖 初 神宮(あまつかみ くにつかみおや はじめ たましい たまや)』といい、中国の四世紀の史書【枕中書】では、『扶桑大帝は 東王公であり、碧中に住す。・・上に 『太真宮』有り、天皇と為り・・云々』、すなわち『太真宮』と説いた。

だから【枕中書】にある『太真宮』が、【竹内文書】にある『天神人祖 初 神宮』ではないか? と推定される。


扶桑大帝の「扶桑」とは、最古の地理書『山海経(せんがいきょう)』にあり、古代中国人の伝説的地理認識を示すものだ。(山海経は今から3000年以上前に成立したとされる)

しかしこの『山海経』も、竹内文書とともに「奇書」扱いされてきたが、列島でも大陸でも、扶桑皇帝の認識は、古来 同じであったのである。



本題からそれたが、スメラミコトとは、

スメル【統める・総める・治める】、ミコト【(上言)・御言・命】

であり、【ミコト:命・尊】は、神々の御子に付けられたから、皇族や高臣にその名が残る。

「みかと(帝・御門)」や、尊び祝う言葉=かみのと(神祝詞)「み(御・上・敬・斎)」+「こと(言)」も同じだ。

だから、「スメラミコトとは、『尊』らを統率する君主」という意味が有ったのではないかと推定できるのである。

古代文字で書かれていた「やまとことば」は やがて、漢字(万葉仮名)に書き換えられ、

→ 音読 → 訓読 → 音読 ~ 好字化 ~ 文語体 ~ 口語体 ~ +外来語 →、

これらを経て、現代語となってきた。(このことら、古代を探る場合、読み方には十分に注意する必要がある。)


ただ、日本の古代文字について語らなければ、これらの説明は十分条件を満たさない。
ぜひ、古代文字便覧なども参考にして頂きたい。

古代文字便覧
 
大御食神社(Wikipedia)
 


【今日の結論】

大陸の知識人の中には、古来から『天皇』という漢字が存在し、それが列島(扶桑国)のスメラミトのことであるとの認識があった。

列島では、神々の御子には「ミコト:尊・命」が付けられた。

スメラミコトとは『尊』ら世界を統率する君主、という認識のもと、七世紀後半、天武天皇の頃、「天皇」号が使われるようになった。


(つづく)

「スメラミコト(天皇)家」の出自について

古代の 列島や大陸の人たちは、日本にスメラミコト(天皇)がいたことを、紀元前から既に認識していた。

日本国憲法 第1条は、天皇の地位に関して、国民の総意に基づく と記されているが、では 天皇の根拠は 那辺にあるのか?

戦後の 憲法学会における議論をリードした憲法学者、芦部信嬉氏は、こう言っている。

・・・明治憲法においては、天皇の地位は 天照大神の意志、つまり 神勅に基づくとされた。
だから 結局、日本国憲法では、天皇の地位は「日本国民の総意に基づく」ものであり、しかし「天皇制の根拠は、神々の子孫であるということ以外にない。」のである。

また、国会に於いても、
・・旧憲法下における天皇は、いわゆる神勅にさかのぼるわけでございます。・・
などと議論された。

すなわち、天皇が存在する根拠は、記紀の記述に基づく、歴史的事実以外に ないのである。


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さてその上で、では 天皇家の出自を 記紀以前の史書では どう扱ってきたか?

始めに、大陸における見解を見てみよう。

斎藤忠氏の「盗まれた日本建国の謎」(P99~P100) から一部 要約し、引用させて頂く。

(要約引用はじめ)

前漢代、袁康の「越絶書」には、『夫れ、越王勾践は、東僻と雖もなお、天皇の位に繋がる』
すなわち、「東方僻地の王は、天皇たり得る」という認識が存在する。

このことは、唐代の補筆された『史記』の冒頭には、「一説には、三皇は、天皇、地皇、神皇・・・。天地初めて立つ、天皇氏あり・・・。」とあり、これは「最初に天地のうちに現れた君主が、天皇である」と記されている認識と同じである。

また、四世紀の道士 葛洪は 著書『枕中書』のうちで、扶桑大帝東王公は天皇なり とし、『扶桑大帝は 東王公であり、元陽父と号し、碧中に住す。・・上に 太真宮有り、天皇と為り・・云々』と、説いた。

すなわち、「天皇は、大陸東方海上の島に住み、そこを治める日神なる 君主神」ということである。

(要約引用ここまで)

上記は 古代の大陸の人たちの認識であった。


では、列島では どのような記述があったかというと、「竹内文書」にこうある。

・・・日球の国より ホドの神天降り、地球より ミドの神降り、相和する神・・自ら祭主となりて、此のときより 初めてスメラミコト(天皇)と、上の代の神より、詔(みことのり)して定む。
と記されている。

すなわち、天神と人祖(くにつかみ)から生まれた 国萬造主は、『天神人祖初神宮(あまつかみ くにつかみおや はじめたましい たまや)(太真宮?)』を勧請し、自ら祭主となり、スメラミコト(天皇)の称号を授かり、「国萬(よろず)造り主スメラミコト(天皇)」となった』とある。


【今日の結論】

列島に 日球から天降った神より生まれた「国 萬(よろず)造り主」は、スメラミコト(天皇)の称号を賜った、という記述がある。

一方 大陸では、「天皇は、大陸東方海上の島に住み、そこを治める日神なる君主神」という認識があった。

だから 東方の僻地に住む 越王 勾践(在位紀元前496年 - 紀元前494年)は、天皇の位に繋がる人である、との認識があった。

すなわち 古代の列島や大陸の人たちは、日本に スメラミコト(天皇)がいたことを、少なくとも 越王勾践(こうせん、? - 紀元前465年)の時代以前から 認識していたのである。

(つづく)

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