スメラミコトが「天皇」と表現された経緯



「竹内文書」によると、スメラミコト(天皇)の称号は、日球の国のホドの神(天神)と、地球のミドの神(人祖:くにつかみ)から生まれた 国萬造主(くによろずつくりぬし)が、上の位の神より授かった、とある。

その称号を授かった場所を、『天神人祖 初 神宮(あまつかみ くにつかみおや はじめ たましい たまや)』といい、中国の四世紀の史書【枕中書】では、『扶桑大帝は 東王公であり、碧中に住す。・・上に 『太真宮』有り、天皇と為り・・云々』、すなわち『太真宮』と説いた。

だから【枕中書】にある『太真宮』が、【竹内文書】にある『天神人祖 初 神宮』ではないか? と推定される。


扶桑大帝の「扶桑」とは、最古の地理書『山海経(せんがいきょう)』にあり、古代中国人の伝説的地理認識を示すものだ。(山海経は今から3000年以上前に成立したとされる)

しかしこの『山海経』も、竹内文書とともに「奇書」扱いされてきたが、列島でも大陸でも、扶桑皇帝の認識は、古来 同じであったのである。



本題からそれたが、スメラミコトとは、

スメル【統める・総める・治める】、ミコト【(上言)・御言・命】

であり、【ミコト:命・尊】は、神々の御子に付けられたから、皇族や高臣にその名が残る。

「みかと(帝・御門)」や、尊び祝う言葉=かみのと(神祝詞)「み(御・上・敬・斎)」+「こと(言)」も同じだ。

だから、「スメラミコトとは、『尊』らを統率する君主」という意味が有ったのではないかと推定できるのである。

古代文字で書かれていた「やまとことば」は やがて、漢字(万葉仮名)に書き換えられ、

→ 音読 → 訓読 → 音読 ~ 好字化 ~ 文語体 ~ 口語体 ~ +外来語 →、

これらを経て、現代語となってきた。(このことら、古代を探る場合、読み方には十分に注意する必要がある。)


ただ、日本の古代文字について語らなければ、これらの説明は十分条件を満たさない。
ぜひ、古代文字便覧なども参考にして頂きたい。

古代文字便覧
 
大御食神社(Wikipedia)
 


【今日の結論】

大陸の知識人の中には、古来から『天皇』という漢字が存在し、それが列島(扶桑国)のスメラミトのことであるとの認識があった。

列島では、神々の御子には「ミコト:尊・命」が付けられた。

スメラミコトとは『尊』ら世界を統率する君主、という認識のもと、七世紀後半、天武天皇の頃、「天皇」号が使われるようになった。


(つづく)

「スメラミコト(天皇)家」の出自について

古代の 列島や大陸の人たちは、日本にスメラミコト(天皇)がいたことを、紀元前から既に認識していた。

日本国憲法 第1条は、天皇の地位に関して、国民の総意に基づく と記されているが、では 天皇の根拠は 那辺にあるのか?

戦後の 憲法学会における議論をリードした憲法学者、芦部信嬉氏は、こう言っている。

・・・明治憲法においては、天皇の地位は 天照大神の意志、つまり 神勅に基づくとされた。
だから 結局、日本国憲法では、天皇の地位は「日本国民の総意に基づく」ものであり、しかし「天皇制の根拠は、神々の子孫であるということ以外にない。」のである。

また、国会に於いても、
・・旧憲法下における天皇は、いわゆる神勅にさかのぼるわけでございます。・・
などと議論された。

すなわち、天皇が存在する根拠は、記紀の記述に基づく、歴史的事実以外に ないのである。


     ◇


さてその上で、では 天皇家の出自を 記紀以前の史書では どう扱ってきたか?

始めに、大陸における見解を見てみよう。

斎藤忠氏の「盗まれた日本建国の謎」(P99~P100) から一部 要約し、引用させて頂く。

(要約引用はじめ)

前漢代、袁康の「越絶書」には、『夫れ、越王勾践は、東僻と雖もなお、天皇の位に繋がる』
すなわち、「東方僻地の王は、天皇たり得る」という認識が存在する。

このことは、唐代の補筆された『史記』の冒頭には、「一説には、三皇は、天皇、地皇、神皇・・・。天地初めて立つ、天皇氏あり・・・。」とあり、これは「最初に天地のうちに現れた君主が、天皇である」と記されている認識と同じである。

また、四世紀の道士 葛洪は 著書『枕中書』のうちで、扶桑大帝東王公は天皇なり とし、『扶桑大帝は 東王公であり、元陽父と号し、碧中に住す。・・上に 太真宮有り、天皇と為り・・云々』と、説いた。

すなわち、「天皇は、大陸東方海上の島に住み、そこを治める日神なる 君主神」ということである。

(要約引用ここまで)

上記は 古代の大陸の人たちの認識であった。


では、列島では どのような記述があったかというと、「竹内文書」にこうある。

・・・日球の国より ホドの神天降り、地球より ミドの神降り、相和する神・・自ら祭主となりて、此のときより 初めてスメラミコト(天皇)と、上の代の神より、詔(みことのり)して定む。
と記されている。

すなわち、天神と人祖(くにつかみ)から生まれた 国萬造主は、『天神人祖初神宮(あまつかみ くにつかみおや はじめたましい たまや)(太真宮?)』を勧請し、自ら祭主となり、スメラミコト(天皇)の称号を授かり、「国萬(よろず)造り主スメラミコト(天皇)」となった』とある。


【今日の結論】

列島に 日球から天降った神より生まれた「国 萬(よろず)造り主」は、スメラミコト(天皇)の称号を賜った、という記述がある。

一方 大陸では、「天皇は、大陸東方海上の島に住み、そこを治める日神なる君主神」という認識があった。

だから 東方の僻地に住む 越王 勾践(在位紀元前496年 - 紀元前494年)は、天皇の位に繋がる人である、との認識があった。

すなわち 古代の列島や大陸の人たちは、日本に スメラミコト(天皇)がいたことを、少なくとも 越王勾践(こうせん、? - 紀元前465年)の時代以前から 認識していたのである。

(つづく)

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日本の旧約聖書、「竹内文書」が明かす天地創造の秘密

日本に天降った天地開闢の神『ホドの神』は、「エロヒム」の分身だった。


『カバラ』と云うユダヤ教の思想がある。

それはアブラハムが、いと高き神の祭司「メルキゼデク」から伝授された 天界の秘密だという。

『カバラ』では、この世界が創られた過程を、創造神の「エイン・ソフ(無限光)」から 10段階に渡って「セフィラ(神の徳性)」が流出し、そのときどきに それぞれの神の属性が反映されて出来あがったとする。

これを「生命の樹」、すなわち、天地(地球)創造の秘密として 著しているのである。



10段階の神の徳性 とは、以下の通りである。

 セフィラ(神の徳性)   神名           守護天使

 1) ケテル  王冠   エヘイエー       メタトロン
 2) コクマー 知恵   ヨッド         ラツィエル
 3) ビナー  理解   エロヒム        ザフキエル
    ダァト  知識
 4) ケセド  慈悲   エル          ザドキエル
 5) ゲブラー 峻厳   エロヒム・ギボール   カマエル
 6) ティファレト 美  エロハ         ミカエル
 7) ネツァク 勝利永遠 アドナイ・ツァオバト  ハニエル
 8) ホド   栄光光輝 エロヒム・ツァオバト  ラファエル
 9) イエソド 基礎   アドナイ・メレク    サンダルフォン
10) マルクト 王国



さて、旧約聖書には 天地創造の話が書かれているが、日本の【竹内文献】にも 天地創造の話が書かれている。

竹内文献の冒頭・・・

天地 開びゃく前の「おおね(大根)元、そうみからだ(総身体)、大 たましい(魂)の たま神(霊神)」、「地球 くにつ(人)神人」の「おや(祖)の神」は、始めて ひだま(日球)の国より、『ホドの神』 天降り、・・云々・・・

・・・・とある。

注目すべきは、「『ホドの神』が天降り」 とあることである。

日本の神々の中に、『ホドの神』という名を聞かない。

だが、前述の「生命の樹」にある セフィラを、創造神から分かれた神々が 地球に降りられた過程と考えると、その中の、(8)「ホドの神」がそれにあたる。

すなわち、天界の創造神「エイン・ソフ(無限光)」から分かれた神々の 一人であるところの「ホドの神」が、この日本に天降り、「スメラミコト」と 定められたと、書かれているのである。

「竹内文献」の「ホドの神」について指摘した人は、未だいないようだが、少しでも神学や古代史を囓った方なら、糸が解れてくるかもしれない。

なお「竹内文献」が、古代文字から漢字に書き改めたおりに、「ホドの神」を男神、「ミドの神」を女神としているが、「オミ(男女)二神あい合わすところ云々」ともあることから、より上位神であるところの ホドの神・ミドの神の名称には、特別な意味があると考える。


「竹内文献」の中には 世界中の話が 一見 荒唐無稽に書かれているが、これらのことから 実は 根本的に ユダヤのそれと同一のものだと云うことが 推測されるのである。

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二人の天照大神

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新年にちなみ、天照大神について記したいと思います。


天照大神は、日本の主宰神として伊勢に奉られ、宮中には皇祖神として賢所に奉られる。 

賢所(宮中三殿)は、明治時代初期に再興され行政機関の筆頭に置かれたところの「神祇官」が、附属の神殿とともに創建し天照大神を奉った。 

古代の律令制で設置された「神祇官」は、仏教勢力の台頭により十世紀以降絶えたが、明治政府により復興した。 
しかし、平安以来の仏教勢力の巻き返しがあり、神祇省への降格され、間を置かず廃止された。 

これらのことは「日本とは?」と問ううえで、非常に重要な観点である。 


さて、前置きはこのくらいにして、二人の天照大神について・・・。 

正史とされる記紀のうち、古事記は「天地が初めて分かれた時、高天原に成り出でた神の名は天之御中主神。」、
日本書紀は「天地が生まれる初め・・・天地の中に一つの物が生じた。・・それは神となった。名を国常立尊と言う。」
・・とある。 

一方、古史古伝には「竹内文献」「先代旧事本紀」「ホツマツタヱ」などがあるが、竹内文献には天地創造の歴史が書いてある。(このことは別稿で・・。) 

その「竹内文献」には、 
・天神御系譜(神代七代) 
・神皇御系譜(皇統二十五代) 
・鵜草葺不合天皇御系譜(不合(あえず)朝七十二代) 
・神倭(かむやまと)朝(神武天皇~現在の総称) 
が書かれている。

その中の
・神皇御系譜(皇統二十五代)には、 
  4 代 天之御中主神身光天皇 
 22代 天疎日向津比売身光天津日嗣天日天皇 (アマテラス) 
が記されている。 

すなわち記紀には記されていない、神代・上代・不合朝の数十代(数百年)の時代があり、だから記紀の記述より数十代(数百年)前に、天照大神はいたという。 

この方が、伊勢に奉られている天照大神で、はじめの天照大神様なのだ。 

私は「竹内文献」を概ね事実であろうと思っている。 


では、二人目の天照大神とは誰なのだろうか?
「ホツマツタヱ」にはアマテル(天照神)と言う男神がいる。 

日の神、大御神、アメノミヲヤ、イセの神 (妹背の神) ともいい、幼名をウヒルギ (大日霊貴)、斎名をワカヒトといった。

アマテルに大日霊貴と字を宛てたために女神とされ、だから天照大神男神説はここからでている。 

先の 皇統 22代の 天照大神は偉大な女神であり、その記憶は永く語り継がれ、後の 大日霊貴と同一視された。 


七世紀に起きた『壬申の乱』は、天皇の座を巡り 雌雄を決する戦いだった。 
勝者の天武天皇は、天照大神ー神武天皇の後継者として、その正統性を記すために記紀を作成し、伊勢の神宮を重用した。 
(壬申の乱は、後の南北朝の争いの元ともなった。) 


その時、二人の天照大神は、一人にされた。
その方が、七世紀における覇権の正統性を編集するのには都合が良かったのだった。 

なぜなら、不合朝の七十二代を認めれば、壬申の乱で天武が仕上げをし、持統が藤原氏と簒奪した神倭朝(大和朝)に、新たな火種を残すことになるからであった。 

すなわち、天照大神ー神武天皇の後継者として名乗り出る者は、いくらでも居たであろう。
そうすれば、戦いは いつまでも絶えなかったに ちがいない。

古史古伝や古代文字の焚書は そのための政策であった。 
記紀の紀年を調べると、大きな矛盾が生まれてくるのも、覇権の正統性を巡る政策の 結果であった。