「 駒ヶ岳 」 地名の由来考




伊那谷から、木曽駒ヶ岳と 甲斐駒ヶ岳が 見えます。



駒ヶ根市は 『駒ヶ岳サミット』 を 提唱した市ですが、全国には、正式名称では16ケ所、通称では大小 いくつの 『駒ヶ岳』 があるのでしょう?


駒ヶ岳の名は、福井・富山・信濃・甲斐・神奈川以北にありますが、それには大きな理由があります。

紀元前37年頃~668年に、半島から大陸北部にかけて、扶余系民族による 『(前)高句麗 』 という国がありました。 日本語での古名は 「 こま 」 です。 

混同されやすいですが、『 後高句麗 』 (899年~918年)とは違う国です。 当然、高麗(こうらい) とも違います。 高麗は、(918年 - 1392年)王建(太祖)が建てた国。


古代、「 こま 」 の国からは、 『 弊賂弁(へろべ)島 』 と 『 渡島 』 を経て、列島に多数の帰化人が入植しました。



彼らが附けた山の名が、『 駒ヶ岳 』 なのです。
彼らはやがて、唐・高句麗系の進駐軍の支配する、大和朝廷に支配される側となりました。


日本海を見ると、ほぼ中央に大和堆(水深約400m)があります。
これが日本書紀で6世紀に 『 粛慎人が 「佐渡嶋北」 に住み着いた 』 とあるところの、今は無き 『 弊賂弁島 』 と 『 渡島 』 です。





大和朝廷の貴族や官僚たちは、「倭人」 を 『弥次さん』、「こま人」 を 『喜多さん』、また 「八つぁん、熊さん」 とか 「野次・馬」 と揶揄し、差別・卑下と懐柔策で日本の国を支配してきました。
(弥次は 八族と同じ、熊・馬は北と同じ意味)

徳川家康(江戸幕府)は、自らも弥次さん喜多さんの仲間なのに、三代将軍以降は朝廷の血も入り、朝廷の真似をして、差別と懐柔策を徹底し、体制の強化・存続を図ったのです。




『美女ヶ森』 名称の由来を考える。


大御食神社のある鎮守の森を 古来から 『美女ヶ森』 といいます。

ではなぜ 『美女ヶ森』 なのか? その名称を考えてみます。

阿比留草文字で書かれた社伝記には、

「 応神天皇38年(307)6月9日 朝未だ暗きときに、上穂の里足彦の弟子『ヤオトリ』に 日本武尊(の霊)が懸かり、イツイラツヒメと共に草薙の剣の霊代を迎えよ と告げた 」

「 その秋7月20日、熱田ノ宮より草薙の剱の御霊代、また 『美しの杜と御名する 熱田ノ杜』 より、宮簀姫 またの名をイツイラツヒメ(厳色姫)を迎え奉る 」

と記されています。

社伝記 「美社神字」 を解読した 落合直澄は、イツイラツヒメを 「厳色姫」 と表しましたが、現在は 「五郎姫」 と記されています。

では、『宮簀姫 またの名を イツイラツヒメ』 と社伝記に書かれている 「イツいらつひめ」 とは どういう意味なのでしょうか?



沖縄の八重山地方には その昔、島の女性が愛する男性に “いつ(五)の世(四)までも どうか一緒に” との思いを込めた、五と四の柄が並ぶ 「ミンサー織」 という 「絣模様の織物」 があり、現在でも 伝統工芸として伝わっています。

ここから、「イツ」 は、いつも(何時も)という意味ではないか?
それに、上代には 若い女性を親しんで呼んだ語で、『いら‐つ‐め【郎女】: いらつひめ』 という言葉があります。

すなわち、「イツイラツヒメ」 とは、「いつも美しい若い姫」 という 「愛称」 であり、その姫がおわします熱田ノ杜を 「美しの杜と御名する 熱田ノ杜」 と呼んだのではないだろうかと思います。


大御食神社も宮簀姫をお迎えして、地名を 『美女ヶ森』 と呼ぶようになりました。



【参考】
『尾張国吾湯市群火上天神開始本伝』 には ”小止女命”(おとめのみこと)、
『熱田祠官略記』 には ”小止女命 またの名を宮簀姫” と記されている。
また 「ミヤスというのは、元来は 『宮主(みやす)』 であり、”神剣を祀る 宮の主” という意味である」 という。
【通説】
宮簀媛は 尾張国造 乎止与命(オトヨ)と 母 眞敷刀婢命(マシキトベ)との子。

「伊那(いな)」の地名 起源考

「イナ」 という地名について通説を挙げてみると・・・

・伊那は、伊奈とも以奈とも書いたことは、倭名抄にも見えている。
稲に関係する以奈木(稲木)や伊奈久良(倉廩=穀物を蔵する也)などのことばに見ても、伊那の地名が稲に関することばから出たものであることは、ほぼ推想出来るとしなければならない。〈信濃地名新考〉

・「いな」(伊那)は非常に古い起源の高みや丘陵、段丘などをいう「うな」に由来する地名で、これが、「いな」に転じたものとみられ、さらに「うな」をたずねると、田や畑に見られる「うね」にいきつくわけです。

また「恵那山トンネル」の「恵那」も「うな」と同一の語源とみるのがよく、そうすると、「伊那」とも強い関連というよりも同じ性格の地名といえるわけです。〈長野県の地名 その由来〉


◆また信濃国伊那郡の「伊那」の由来には諸説あり、

① 湧き水(井)の多い名(国名)=井名とする説。

② 天竜川流域を開拓した 猪名部(伊那部)氏に因むとする説。

③ 信濃国造(しなののくにのみやつこ)である 建稲背命(たけいなしろのみこと)の名に因むとする説。

④ 古来、アイヌ民族の住む土地で、アイヌの神事に用いる木製の幣束である 「イナウ」 を祈り捧げたことから。

⑤ 砂や灰などの堆積物を 「よな」 と言い、砂地(よな)が多かったことから。

⑥ 「畝(うな)」 の転で 「高所」 という意味。

⑦ 古代、神事に関する名詞の接頭語として、《神聖な―》 や 《清められた―》 という意の 「いー」。  漢字では「斎/忌」と書く。
《広い場所》という意味の「野(の)」で「斎野(いの)」が転じた。

⑧ 《割れ目》 を意味する古代語の 「イヒ」+《場所、土地》 という意味の 「ナ」=谷あい を意味する 「イヒナ」 が 「イナ」となった。

中でも ② ③ 辺りが 有力とされているようです。


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【私の意見】

伝わる多くの 『 古伝書 』 には、地名など豊富な伝承が隠されています。
全国の神社伝承もまた歴史の貴重な資料です。
たとえば 『 秀真伝(ホツマツタエ) 』 などは現在偽書とされていますが、とんでもありません。大御食神社の社家の先祖である思兼命(阿智彦)の生涯は 『ほつまつたゑ』 に記されています。

例えば、滋賀県の伊勢遺跡は、弥生時代後期中頃から急激に発達した大規模集落で、ほつまつたゑには、和歌姫・思兼尊夫妻が結婚後に、野洲川べりに移り住んで宮を構えて、日嗣(ひつぎ)の皇子・忍穂耳尊(シホミミ)の御子守をしたと伝承され、思兼=阿智彦は死後、信濃の伊那洞に埋葬されたと、書かれています。

【  ・・・・・  サキニミコモリ   ( ・・・   先に身隠り  )】  ←  (史郎解釈)
【 オモイカネ シナノイナホラ  ( 思兼  シナノ去洞 )】
【 アチノカミ   ・・・・・・・   ( アチの神  ・・・・・・ )】

《 意訳 》
思兼命は、妻シタテル姫(アマテル神の姉)と共に、ヤスカワ宮(野洲川、滋賀県)で東宮である オシホミミの 御皇子守(ミコモリ)役をしていましたが、死後アチノ神(阿智神社、阿智村)の神名を送られて、信濃イナホラ(伊那洞)に葬られ神上がりました。

では、その伊那洞では、どう伝わっているか?
現地の案内板には、

式内阿智神社元宮の磐座 
磐座のあるこの小山は、昔から『河合の陵』と呼ばれる。
 ・・・
この巨石が、社殿の発達する以前、阿智族の守護神であり、祖先神である八意思兼神、その御児・天表春神二神の神霊を迎えて祭りが営まれた式内阿智神社の元宮である。・・・略

とあります。
しかし、事実は『ほつまつたゑ』に記されている通りの史跡となっています。



私は、伊那という地名は、去洞(イナホラ)= 神上がりした洞から転じたのだと思います。
当時の吾道彦(吾道家)の権勢は、社伝記によると阿智から現在の伊那市小沢側の南まで及んでいました。