各地に伝わる古代文字(3)

枚岡神宮


大和神社



南宮神社


戸隠神社


生國魂神社


住吉神社


石神神宮


各地に伝わる古代文字(2)

法隆寺



三輪神社



鹿島神宮



鶴岡八幡宮



各地に伝わる古代文字(1)


伝 出雲大社


伝 阿波国大宮


伝 畔切(あきるの)神社社

弊立神宮


鶴岡八幡宮石碑


大御食神社

大御食神社 概況

御蔭の杉
大御食神社 正面
拝殿
本殿

大御食神社 概要


日本の屋根、中央アルプス と 南アルプスに 挟まれた 伊那谷。
そのほぼ真ん中の、駒ヶ根市 の 赤須の里 に 美女ヶ森 がある。


大御食神社は、その鎮守の森・美女ヶ森の中に、
二千年の歴史を抱いて、厳かに佇んでいます。




【名称】  
美女ヶ森  「 大御食神社 ( おおみけじんじゃ )」  



【祭神】  
日本武尊
五郎姫神(宮簀姫)
八幡大神 (譽田別命・応神天皇)



【由緒】 

・ 景行天皇41年(111)、日本武尊が東征の帰途、里長赤須彦の饗を受け 三夜を同地に過ごし、赤須彦彦に御食津彦の名を 賜った。
・ 景行天皇48年(118)、赤須彦が日本武尊を祀り大御食ノ社と名付ける。
・ 応神天皇38年(307)  7月22日、熱田の草薙の剣の霊代と 美女社の宮簀姫とを迎え地名を 『 美しの森 』 と呼んだ。
・ 元慶三年       (873)  石清水八幡宮から八幡の神を迎え、日本武尊と五郎姫神(宮簀姫)を相殿に奉斎した。
・ 明治五年 郷社に昇格
・ 昭和42年 神社本庁より 献幣使 参向指定神社となった。


【名跡】  

本殿 :
・ 景行天皇 48年 創建
・ 享保18年 本殿 造営
・ 元治元年 本殿 改築造営 (現在の本殿)
  諏訪の名匠 立川流 立木音四郎 作。
・ 古代神像 (平安時代作)



【ご神木 御蔭杉】

上古の時代建御名方命が国造りの時奇杉なりと愛で給い、景行天皇41年日本武尊東征の帰路、赤須彦この杉の大樹の元仮宮を設けて尊を迎え酒餞を饗せし時尊大に悦ばれ、この杉の樹陰清々しく弥栄えて丈高く奇杉なりと愛で給いぬ。
以来 この杉を御蔭杉と称せしと神代文字社伝記に記しあり。

神功皇后4年杉枯れたにで翌5年春中枝の大虚に育った実生の杉の植継を行いたり。

文徳天皇斉衛三年五月御蔭杉枯れたりしため同天皇天安二年春 上下伊那より氏子百数十人により 杉の植継行われ七日七夜 歌い舞の宴を張り大祭を行いしと伝えられる。

現在の御神木御蔭杉はその時植えられたもので 樹齢千百年を経ている。




1,概容

大御食神社はこの 古代文字で書かれた社伝記”美社神字録”の由緒によって、二千年の歴史を刻んできています。 

しかし その寄るべき社伝記を、まるで忌み嫌うかの如くに隠蔽し、祟りでもあるかの如き扱いをしている 現在の歴代関係者の姿勢は、批判されねばなりません。

社伝記の真贋を 無意味に問わず 隠し、しかし その伝統に寄りかかる姿は、大御食神社の正統性をこそ 踏みにじるものであるからです。

お宮の役員及び関係者らは 何も分からぬままに、お宮の伝統に対して真摯に対峙する姿勢を示す事が出来ないとしたら、また自らの立場を 懐疑逡巡しているとしたら、お宮を 潔く神官家に返上すべきでしょう。



2,赤須彦

社伝記では以下のように記しています。

「吾はこの国の魁師、阿智ノ宮に齊い祀る、思兼ノ尊の子 表春の命の裔、阿知の命の御子阿知山の裔の別裔、赤須彦なり。」

古事記によると、
『天地初發之時。於高天原成神名。天之御中主神。次高御産巣日神。次神産巣日神。』

「天地が初めて分かれた時、高天原に成り出でた神の名は、天之御中主(アメノミナカヌシ)神。次に高御産巣日(タカミムスヒ)神。次に神産巣日(カムムスヒ)神。」

とありますが、二番目に成り出でた神・高御産巣日神(高皇産霊神)の息子が『八意思兼尊』で、その子が手力雄命、表春命です。

そして、赤須彦は自ら、思兼尊の子・表春命末裔であると言っています。

すなわち大御食神社は、神々の系譜に連なる、由緒あるお宮なのです。



3,日本武尊

大御食神社は、日本武(ヤマトタケ)尊の名付けたお宮です。 
それ故に、日本武尊についての考察も大切であると思われます。

日本武尊の東征の足取りは、神社伝承からかなり明確に分っています。
後の坂上田村麻呂などの蝦夷征伐とは、根本的に違いがあります。

すなわち日本武尊はこのとき、出雲の神々や高皇産霊神ファミリーを従えて、文字通り「蝦夷等言向け平和(やわし)給ひ」て来たのですが、坂上田村麻呂らは大和朝廷の蝦夷征伐そのものでした。

古代史が今ひとつ分からないのは、大和政権誕生前の、倭国の姿を結佐っているところにありますが、日本武尊も、大御食神社も大和政権以前の歴史を物語っています。



4,古代文字

大御食神社の社伝記に書かれた古代文字は、「阿比留草文字」に分類(一部「阿波文字」が混在)されています。 

この「阿比留草文字」は、甲骨文字が発達する過程の金文の草書体であり、解読も出来ております。

甲骨文字の発見は、1899年(明治33年)ですから、社伝記が解読されたよりは後です。 

また古代文字の真贋論は、無意味な皇国史観論争に巻き込まれ、無駄な時間を費やしております。



5,伊那谷から見える古代史

古代文字で書かれた社伝記”美社神字録からは、多くの史実が読み取れます。
その史実を読み解くと、真実の古代史が見えてきます。

・ 地名(里名),
・ 日本武尊の 呼び方は 『ヤマトタケの尊』, 等々


古代文字便覧 わをん

わ  wa
を  wo
ん  un

古代文字便覧 らりるれろ

ら ra
り  ri
る  ru
れ  re
ろ  ro

古代文字便覧 やゐゆゑよ

や  ya
ゐ  yi
ゆ  yu
ゑ  ye
よ  yo

古代文字便覧 まみむめも

ま  ma
み  mi
む  mu
め  me
も  mo

古代文字便覧 はひふへほ

は  ha
ひ  hi
ふ  hu
へ  he
ほ  ho

古代文字便覧 なにぬねの

な na
に ni
ぬ  nu
ね ne
の no

古代文字便覧 たちつてと

た ta
ち  ti
つ  tu
て  te
と  to