【社伝記】社伝記解読(7)

【社伝記】社伝記解読(7)



美社(うつくしのもり)大御食社(おほみけのやしろ)の御寶(みたから)

一尺五寸磨刃(ひとさかいつきとぎは)

頭槌之御剱(かうつつのみつるぎ)

八華形ノ御鏡(やつはながたのみかがみ)

総(すべ)渡り八寸(やき)余り



大御食神社の御宝

たとえば日本神話では、岩戸隠れの際に後に玉造連の祖神となる玉祖命が八尺瓊勾玉を作り、八咫鏡とともに太玉命が捧げ持つ榊の木に掛けられた。


また仲哀天皇の熊襲征伐の途次、岡県主の熊鰐、伊都県主の五十迹手がそれぞれ白銅鏡、八尺瓊と共に十握剣を差し出して降伏している。

このように、古代には八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)・八咫鏡(やたのかがみ)・天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)が三種の神器とされた。

ここにはそれを模った二点がある。
日本武尊をお迎えしたときに、使用されたものであろう。


一、頭槌之御剱

これは古墳時代環頭大刀(かんとうだち)や頭椎大刀(かぶつちのたち)などの柄頭に特徴的な装飾がある剱だと思われる。

二、八華形ノ御鏡

これは、阿智の安布知神社に伝わるものと同じものがあったと思われる。
しかし、安布知神社の伝えでは、日本武尊とは関わらない。

また、最近の調査では写されたものであることも解っている。
(・・・・この項、別記予定)

安布知神社に伝わる八花鏡


現在、大御食神社には、跡形もない。

【社伝記】社伝記解読(5),(6)

社伝記解読(5)

尊いと愛で給いて、三夜御座(おはし)ませり。

別れに臨みて歌いて詔り給はく、
「二夜三夜、二人寝しかも、飽かずかも。 美し乙女愛(あ)しけやし。 居立ち 廻(もとほ)り、愛(は)しけやし 乙女。」

押姫答(いらえ)歌奉りて、
「愛しけやし、我が 大君の御手に捲く、珠持つ日根子忘られず、珠持つ日根子忘れられず、吾夫(あせ)を 占(し)め延(は)む、吾夫(あせ)を占(し)め延(は)む。」

御食津彦人々共に日本武尊を 送り奉れり。

日本武尊御安楽居(みやすらい)し時に、小石(ささかなるいし)と詔(の)り奉(たま)いて御手掛け給ひし故に、『御手掛け石』 と名付く。


日本武尊は、押姫と三夜過ごした。
そして、別れのときに歌った。

「二夜三夜、二人寝しかも、飽かずかも。 美し乙女愛(あ)しけやし。 居立ち 廻(もとほ)り、愛(は)しけやし 乙女。」

それに押姫が答(いらえ)歌を送って、
「愛しけやし、我が 大君の御手に捲く、珠持つ日根子忘られず、珠持つ日根子忘れられず、吾夫(あせ)を 占(し)め延(は)む、吾夫(あせ)を占(し)め延(は)む。」

この日根子という表現に、大きな意味がある。 (・・・・この項、別記予定)


社伝記解読(6)


また大御酒奉りし時、御盃を置き給ひし故に『平瓮(ひらか)石』とも申す。

御渡りの神は建御名方ノ神なり。
御国の巡りの時奇(くしび)の杉なりと詔らせ給ひて愛で給ひし故に、国の人の斎奉(いつきまつ)れるなり。
天つ御許(みもと)の神なるゆえに、国人(くにひと)の斎祀れるなり。


ここでは、建御名方ノ神 について書かれている。

私は素直に、
『建御名方ノ神は、天つ御許(みもと)の神なるゆえに、』
と読むが、なぜか
『天降(あも)りますとの神の称えに』
とも読まれている。

思うに、落合一平(直澄)が解読した後、誰かが意図して違えて読んだのだろう。
考えられることはいくつもあるが、前者の読み方だと、建御名方ノ神は出雲系ではないかも知れない。
伊勢津彦ほかの、信濃国に関連する話を想起させるのである。 
(・・・・この項、別記予定)



【社伝記】社伝記解読(3),(4)


社伝記解読(3)


また これより すぐに 中沢熊鰐(くまわに)に 山の麁物和物(あらものにぎもの)を菜らしめ、川戸幸をして 川の魚(まお)捕らしめ、また野彦には野つ物を取らしめて、大御食大御酒種々(くさぐさ)物を御饗(みあえ)たてまつれり。 

故に 赤須(あかつ)彦の名を称えて御食津彦と日本武尊自ら名付け給ふ。

日本武尊また問ひて詔り給はく、「この杉はや、弥栄えて丈高し、奇(くし)び杉なりや。」
御食津彦 答えて申し給はく、


中沢は、赤須の里から天竜川を夾んで、赤石山脈の山懐の深い里である。
それ故に、山の麁物和物(あらものにぎもの)・川の魚(まお)・野つ物は、豊富であったことだろう。

熊鰐(くまわに)、川戸幸、野彦とは、何者であろうか?

熊鰐は、「日本書紀」にみえる豪族で筑紫の岡県主の祖という。
仲哀天皇八年、天皇を周防の沙麼(さば)に出迎え、魚と塩をとる地域を献上、海路を案内した、とある。
一方には、熊鰐とは事代主の一族であり、天皇家を支える権力者であるという説もある。

川戸幸、野彦も、この地の豪族であったと思われる。


社伝記解読(4)

「この杉はや、弥栄えて丈高し、奇(くし)び杉なりや。」

御食津彦答えて申し給はく、

「天照らすこの御蔭杉、久方の月の御蔭杉、綾御杉奇び杉なり。
朝日には嶺に蔭さし、夕陽には尾根に蔭さし、神の代に武御南方ノ神も愛(め)で、汝(な)が親ゝも幾代愛で、また天皇(すめらみこと)の御子も愛で給ひ、今の現(おつつ)に見るが如(ごと)、巡りて抱き十余(とうあま)り、弥栄え弥茂りて雨漏らず、幾丈ありや否知らず、奇(くし)び杉なりこの杉はや。

御食津彦の乙女一人あり、名を押姫と云う。


御蔭杉についての問答がつづく。

「神の代に武御南方ノ神も愛(め)で・・・」
「天皇(すめらみこと)の御子も愛で給ひ・・・」
とあるが、どんな言い伝えがあったのか?

「巡りて抱き十余(とうあま)り」とは、よほどの大杉だったに違いない。

御食津彦(赤須彦)に一人の娘がいた。
名を押姫(おしひめ)という。 ・・・その物語が続く。

【社伝記】社伝記解読(2)



待饗(まちあい)し給ひして、日本武尊(やまとたけのみこと)を迎えたてまつりき。
日本武尊御蔭の杉の木清々(すがすが)しと告(の)り給ひて、御安楽居(みやすらい)給ふ。


日本武尊問ひて告り給はく、
「汝(いまし)は誰(た)ぞや」。
応(こた)え給はく、「吾はこの国の魁師(ひとこのかみ)、阿智ノ宮に齊(いは)い祀(まつ)る、思兼ノ命の子表春(うわはる)の命の裔(はっこ)、阿知の命の御子阿知山の裔の別裔、赤須彦なり。
天皇の御子い出ますと聞き、迎えたてまつりき。
故に真榊の一つ枝には、頭槌(かうつつ)の劔を懸け、二つ枝には八華型の御鏡を懸け、三つ枝には和弊(にぎたえ)を懸け、大前に迎え立て並べ、群肝(むらぎも)の真心表しまつりて、詔(みことの)りのまにまに帰順(まつろい)まつる。
御誓(みうけ)ひたてまつれり。



赤須彦待饗(まちあい)を受け、日本武尊は御蔭の杉のもとでお休みになった。

二代目の御蔭杉 ここでお休みになったと伝わる。

そこで、尊は赤須彦に問いかけた。
赤須彦は、
「私はこの里の首領で、阿智宮に祀る天思兼命の子表春命の末裔で、阿知の命の御子である阿知山の末裔から別れた赤須彦なり。」
と答えた。

この事は、赤須彦も高皇産霊神ファミリーの一員であることの証しであり、日本武尊の系統と同じであることを物語っている。
やがて七世紀の壬申の乱(672年)は、伊那谷も大きな影響を受けることになるが、古代文字で書かれた秘密の第一の理由が、ここに隠されているのではないか?と思われる。 (後に大和朝の覇権を握った藤原氏一族は、伊那谷を荘園として権勢をふるったが、大御食神社はその影響を受けたと思われる。)

すなわち日本武尊(景行朝)は、九州の天皇家だった証しではないのか?

そうでなければ、天皇の御子い出ますと聞き、迎えたてまつり、且つ頭槌の劔八華型の御鏡・和弊などを懸け、群肝の真心を表すだろうか?

その上で、帰順(まつろい)を御誓(みうけ)ひしたのだ。

【社伝記】社伝記解読(1)





美 社 神 字  (-上巻- 落合一平 解読版をもとに一部再読 ) 

纏向(まきむく)の日代(ひしろ)の宮に、天ノしろしめし給ひし、大帯日子 淤斯呂和気ノ 天皇の御代、日本武尊 東(あずま)の蝦夷(えみし)等 言向け平和(やわし)給ひて、美鈴刈る信濃国を 御還りましし 給ひし時に、この赤須里に至りましぬ。

時に 赤須彦、御蔭の杉の木の下(もと)に 仮宮を設け、八重管薦(やえすがこも) 八重を敷き並び、厳(いか)し楯矛 御旗立て並べ、いと厳かにす。



纏向(まきむく)の日代(ひしろ)の宮に・・・で始まる文章形式は、「豊後国風土記」「肥前国風土記」にある。

「纏向の日代の宮に天下を・・・」と、修飾して景行天皇を表現する原型がどこかにあったのか?
同じ、現存する他の風土記ではこういう表現はとっていないようだ。
播磨国風土記では単に、大帯日子命と記し、常陸国風土記でも単に大足日子天皇と記している)。

Wikipediaによると、「豊後国風土記は、編者も不詳であるが、大宰府が深く関わっていたと推定される。一説では、723年に西海道節度使として大宰府に着任した藤原宇合が、九州の他の国の風土記と合わせてわずか10ヶ月ほどで完成させたともいわれる。」とある。

太宰府は、664年、博多湾岸の那津官家(なのつのみやけ)にあった筑紫の大宰(つくしのだざいという役所)を、現在の大宰府政庁跡地(大宰府市観世音寺)に移転させ、正式に発足したようだから、当時(740年頃)は十分機能していただろう。

この表現は、日本書紀への権威付け(中央から、書紀の内容を風土記に反映させるようにという命令)があったのか? あるいは、太宰府の地方役人が大和王権へのゴマすりの結果か?

風土記の撰上が命ぜられたのが、和銅6年(713年)で、日本書紀の完成が養老4年(720年)。
倉野憲司井上光貞は、日本書紀の一部は風土記の材料が使用されているという説をとっている。
各地の風土記は、日本書紀と同時進行形で編集されていったのかもしれない。

そうすると、この社伝記も同時代のものと考える事が出来るが、ではなぜ古代文字で書かれたのか?という問いには、答えられない。

古代文字で書かれた理由には、他にとても大きな歴史上の秘密、意味があると思えるのだ。 (・・・・この項、別記予定)


【社伝記】古代文字・阿比留草文字で書かれた社伝記のこと


古事記及び日本書紀によると、それぞれ多少の相違はあるが、日本武尊の東征の帰路は相模国足柄山の笛吹峠~酒折宮~信濃国諏訪~伊那郡を通過し、阿智の御坂峠を越えて美濃・尾張に入ったと伝わる。

伊那郡には、小野・溝口・赤須等に、尊が休息されたという伝説が残る。

ここ、赤須の里の大御食神社には、通称「美女ヶ森昔時年代記」という記録が伝わる。そこには、日本武尊がこの地で三日三夜過ごしたことが書かれている。

古代文字で書かれた社伝記

一般には、解読した落合一平(直澄)が記した「美社神字解」と呼ばれているが、吾郷清彦氏「美しの杜物語」と題して全国に紹介した。


下記 口上書 には、社伝記を解読した経緯が書かれている。


美女ヶ森の神代文字に付き伊那懸廳へ差出せし口上書          

美女ヶ森大御食神社傳記の儀は、神主代々継目致し、登京帰宅の砌、三七日致潔斎、開封拝読仕候、然共異形の字体に候故、読者曾て無之、得聴明之人、可読明と申傳へ候処、天明二寅年八月二十二日夜、本書致焼失候へ共、幸に写本有之候而、今尚存在所持仕候
今般復古御一新の折節、明治二巳年正月、諸社由緒可書上御触有之候間、申傳而巳書上候処、同年四月中、将又傳記之御尋之有候間、致潔斎、五月八日社傳記入一覧候処、落合直澄(伊那懸大参事)殿、具に被為遊解読、縦往昔之傳説誠に明かに相成候而嬉々煌々難有奉拝読候、則奉神前且考古者の氏子にも為申聞候以上

明治三庚午年正月十日                                  
小町吾加賀           
吾 道 延 宣 (花押) 
伊那懸御役所                                   

【 目 次 】  (サイトマップ : Site Map )

掲載中のペ-ジは、リンクしています。


  1.   【 表紙・まえがき 】
  2.   【 目  次 】

  3.   【 第一章 】 大 御 食 神 社

  4.     (1) 大御食神社
  5.         大御食神社概況 概要 美女ヶ森とは
  6.     (2) 社伝記とは
  7.         古代文字で書かれた社伝記のこと
  8.     (3) 社伝記を読む
  9.         社伝記解読・上 (1)/(2)/(3)(4)/
  10.                 (5)(6)/(7)
  11.         社伝記解読・下 (1)(2)/(3)(4)(5)
  12.         読下文 全文
  13.     (4) 社伝記記述内容の検証
  14.         社伝記・上
  15.         社伝記・下
  16.     (5) 御祭神:日本武尊
  17.         日根子の系図/東征の足跡

  18.   【 第二章 】  古 代 文 字

  19.     (1) 各地に伝わる神代文字・阿比留草文字
  20.         1)出雲大社/阿波國大宮/アキルノ神社/弊立神宮/
  21.          大御食神社
  22.         2)法隆寺/三輪神社/鹿島神宮/鶴岡八幡宮
  23.         3)枚岡神社/大和神社/南宮神社/戸隠神社/生國魂神社/
  24.           住吉神社
  25.     (2) 古代文字便覧
  26.         あいうえお / かきくけこ / さしすせそ / たちつてと
  27.         なにぬねの
  28.         はひふへほ / まみむめも / やゐゆゑよ / らりるれろ
  29.         わをん  /  新フォント【阿比留草文字】  

  30.     (3) 日本語の成立と文字
  31.         日本語の成立 / 基層語 / 単語 /
  32.         阿比留草文字で書かれた社伝記の古代日本語考
  33.       (4) 文字の成立と伝搬
  34.         楔形文字 / 甲骨文字の発見と変遷 / 絵文字の発見 /
  35.         徐福 /
  36.     (5) 古代文字論
  37.         古代文字論争 / 発生と伝搬 / 甲骨文字系と象形文字系

  38.   【 第三章 】 社 家  

  39.     (1) 赤須彦の系図
  40.         大御食神社の社家は、高皇産霊神の末裔  
  41.         古事記・日本書紀 / 伊勢伝書 /
  42.         先代旧事本紀・大成経 / ほつまつたえ
  43.     (2) 高皇産霊神ファミリー
  44.         高皇産霊神とその系譜 阿智神社 / 天思兼尊

  45.   【 第四章 】 社 伝 記 と 日 本 の 古 代

  46.     (1) 日本人の来歴
  47.         細石刃・縄文人 / イ族と弥生人 / 倭族 /
  48.     (2) 文字の成立と伝搬
  49.         楔形文字 / 甲骨文字の発見/絵文字の発見 / 徐福 /
  50.     (3) 伊那谷の地名の変遷
  51.         伊那の地名 / 駒ヶ岳・名前の由来 
  52.         律令以前(1~2世紀)の地名 
  53.         律令時代(10世紀)の地名(郷名)
  54.     (4) 覇権の推移と伊那谷
  55.         大和朝と伊那谷 / 藤原氏と伊那谷
  56.         伊那谷の 熊鰐氏 と 安曇氏 と 塩竃神社
  57.         九州南部の韓国岳は倭国の聖地だった


  58.       

【 注意:作成中に付き、予告・報告することなく 加筆訂正することがあります。】

【表紙】【まえがき】






はじめに


信州信濃国の伊那谷に、大御食神社(おおみけじんじゃ)という、それは古いお宮があります。
美女ヶ森 大御食神社境内

御祭神は日本武尊(ヤマトタケノミコト)。

日本武尊の尊称を、『日本書紀』、『先代旧事本紀』では日本武尊、『古事記』では倭建命、またの名を日本童男・倭男具那命(やまとをぐな)ともいう。
『尾張国風土記』逸文と『古語拾遺』では日本武命、『常陸国風土記』では倭武天皇、『阿波国風土記』逸文では倭健天皇(または倭健天皇命)と言った。

坂上田村麻呂などによる蝦夷征伐には、徹底的な争いに及ぶ征伐の話が多いが、神社伝承や東日本のそこ此処に伝わる伝説から見ると、日本武尊の東征の伝説には多くの場合、吾妻の国の人々は争わずに帰順したという伝説が存在する。
大御食神社の社伝記でも、赤須の里で里人に歓迎を受けて三日三晩過ごしたと書かれている。

日本武尊が各地で歓迎された理由にはその出自に大きく関わっており、また大御食神社の社伝記に記されている古代文字(阿比留草文字)の秘密も、そこに原点があるのではないか?と思われる。

古代文字の阿比留草文字で書かれた社伝記からは、
・赤須の里の長・赤須彦は、高皇産霊神の直系・天思兼尊の末裔である。
・日本武尊は、『日根子』と呼ばれた。
・建御名方神は、天津御許の神である。
・etc. などが読み取れ、これらの内容にはすべてなぜ?という疑問符がついて廻る。
且つその疑問は次々と連鎖的に広がり、日本の古代史の謎を読み解くカードになる。

さあ!これからその謎解きに挑戦しよう!